屈斜路湖 赤湯 


温泉が至る所で湧き出る道東の湖、屈斜路湖
その中でも老夫婦が仲睦まじく守っている素朴な温泉『赤の湯荘』に宿泊した
湖の縁に建つ湯小屋からの眺めは、寂しいほど静かだった
 

              


屈斜路湖 赤の湯荘
 斜路湖赤湯 旅館『赤の湯荘』昭和54年頃


 屈斜路湖 『赤の湯荘』 湯小屋
 屈斜路湖赤湯 『赤の湯荘』 湖畔の湯小屋 昭和54年頃


屈斜路湖赤湯 湯小屋
屈斜路湖赤湯 『赤の湯荘』 湖畔の湯小屋拡大 





 昭和54年頃、屈斜路湖赤湯『赤の湯荘』に泊まったことがある。
 『赤の湯荘』は、屈斜路湖池の湯の近くにあり、少し開けた場所にポツンと建っていた。

 冬にはシベリアからオオハクチョウが飛来してくる。
 宿主の老夫婦が凍った湖に溶けた部分の池の湯に来る白鳥に餌を与えていた。

  オオハクチョウは弟子屈町の冬の観光資源でもあったが、昭和13年の湖底噴火で、魚や水草、
  水棲小動物が死滅したためこの翌年から飛来しなくなった。
  その後、湖の環境が元に戻るに従い、オオハクチョウも少しずつ飛来するようになり、
  「赤湯の荘」の中川勝次郎さんは、屈斜路の川村勇蔵さんと共に、餌付けを行い、これにより
  オオハクチョウが越冬するようになった。
   後、昭和46年湖辺の住民によって「白鳥を守る会」が発足され、保護活動が行われるようになった。

                            参考資料 昭和56年『弟子屈町史』


 湯小屋は宿から少し離れた湖のそばにあった。湯船は底が砂になって心地よい。
 薄暗い裸電球の下で静かに体を沈め、湯桁にうなじを預けて眼を閉じた。
 湖の波音とトタン屋根の当たる風の音に耳を傾け、いつまでも湯に浸った。



 宿の近くに昔の「コタンの学校」があった。
 そこで代用教員をして一年程であったが、アイヌの子供達に教えていた原野の詩人更科源蔵さん。
 「ここでは、神様のような人だ」と宿主の奥さんは教えてくれた。

 翌朝、九十歳は超えていると思われる宿主から帰り際に、自身が手彫りした素朴な2羽の白鳥を頂いた。

 帰り道、「コタンの学校」に寄ってみた。
 学校は大きな木々に守られるようにあって、年月を経てかなり古ぼけていたように見えたが、
 当時は住居に使われていたようだ。

 家に戻って、更科源蔵さんの『熊牛原野』 (昭和40年発行) を読み返した。

 「コタンの学校」のことが描かれていた。

   学校は屈斜路湖の見下ろせる、小高いところにあって、校庭は桜の木で囲まれていた。
  もう相当の古木もあって苔がついていた。コタンの人達は、この桜に花が咲くと
  学校に集まって花見をし、お盆には盆踊りをやるのも校庭で、
  校庭はコタンのリクレーションの場であった。
  その中でもやはり運動会が一番はなやかさで人気があり、
  どんな遠くへ出稼ぎに行っていても、この日は無理をしてでも皆が帰ってきて、
  運動会に参加した。
   全校生徒が全部で十七人なので、この運動会は学校の行事というよりも、
  むしろ部落全体の運動会といった方が正しいかもしれない。
  こんな小さな学校の運動会なのに、近くの部落は勿論、四〇キロも離れたところからも
  遊びに来た。それはこの運動会が特殊なもので有名だというわけではなく、
  熊祭りなど部落の人達の昔の生活の上にあった祭典がなくなったが、
  集まってお互いに楽しむことの好きな人達なので、あけっぴろげの大さわぎする機会を、
  こよなく愛する雰囲気に人気があるのかもしれない。

                  『熊牛原野』更科源蔵著 広報新書1 昭和40年発行
                                          「運動会」より抜粋




更科源蔵著 『熊牛原野』





「池の湯 植物群落」 と宮部金吾博士について


 池の湯にあるこの土地は、北海道大学名誉教授で、植物学者の宮部金吾博士が戦前から所有していた土地で、
 宮部博士の没後、東京在住の親族が所有し、管理は弟子屈在住者が行っていた。


 約1.9ヘクタールの一帯は、池沼、谷地、湖畔草原、樹林と変化に富んだ群落相があったが、
 このあたりの開発や放牧などにより荒廃が見られ、宮部金吾博士の後継者で、北海道大学名誉教授の舘脇操博士
 昭和40年7月に調査を依頼したところ、
   「ここは屈斜路湖岸の代表的な植物群落があるが、現在は反自然状態におかれているので、
   宮部金吾博士の遺志を尊重し自然保護の地域にするなら優秀な自然植物園になろう」
 と報告している。

 宮部金吾博士が個人で所有していたのは、研究調査のためと、後世に残しておきたい貴重な群落相であったのだろう。

 宮部金吾博士が蝦夷地(北海道)の札幌農学校(現北海道大学)で学ぼうと思ったのは、
 この屈斜路湖を調査した松浦武四郎の影響が大きかったと思われる。
 幼少の宮部博士がこの屈斜路湖について、松浦武四郎から 直接話を聞いたり、
 地図などを見せてもらい、特に興味を持っており、貴重な植相をもつこの場所を所有したのではないかと考えられる。


 またこの池の湯には、松浦武四郎が詠んだ
  『 久寿里の湖 岸のいで湯やあつからん 水乞鳥の 水こふて鳴く 』と刻まれた碑が建立されている。

 宮部金吾博士については、-札幌第一農園 安部信明氏 系譜ーで略歴など掲載している。


                             参考資料 昭和56年『弟子屈町史』
 




昭和初期の赤湯 池の湯について



 屈斜路コタンに生まれ育ち、現在は阿寒在住の弟子シギ子さんは 『わたしのコタン』 の中で
 昭和10年代の池の湯、赤湯の思い出を語られている。

  昭和12,13年頃の池の湯は現在の倍の大きさがあり、当時「コーバ」と呼ばれ、
 方々から湯治客が訪れとても賑やかだった。
 昭和初期頃の池の湯にはマッチ工場があったようで、その後ここで働く罪人が寝泊りしていた大きな家だけが残り、
 伊藤庄太郎(コタンの伊藤ハナババの兄)というおじいさんが管理人として住んでいた。
 シギ子さんの家では、月に1,2回コタンから5キロ離れている池の湯へ、洗濯物を背負って行ったり
 家族か知人が湯治に行っている時には食料を、また管理人のおじいさんへ日用品を届けたりしていた。
 冬には凍った湖面を橇で運んだ。


 池の湯の家から少し離れたところにとても小さなヨシで造られた三角の小屋があった。
 小屋のすぐ前には赤湯という小さな風呂があり、その周りのあっちこっちにお湯が湧き出ていて、このお湯で御飯を
 たいたら、たまご御飯の様な味でとても美味しかった。


                       弟子シギ子著 『わたしのコタン』より 一部抜粋及び要約



 また、昭和12年「北海道温泉地案内」 北海道景勝地案内によると、屈斜路湖湖岸の温泉について
   『湖岸は温泉の湧出する箇所が多く、砂湯、池の湯 赤湯等は何れもいまだ利用されていない』 
 と紹介している


 池の湯周辺には昭和40年頃に宿泊施設がつくられ、その後人々のレジャーの形態が変わるにしたがい次第に衰退し、 
 廃業していった。
 昭和50年 屈斜路湖池の湯の住所にあった宿泊施設は、鹿苑荘 旅館池の湯 松屋旅館 赤の湯荘の4軒だった。
 

                          参考資料 昭和56年 『弟子屈町史』 



 屈斜路湖 池の湯 平成10年8月
屈斜路湖 池の湯 平成10年8月





 屈斜路湖 赤の湯荘~外湯の湯小屋は無く、建物は使われていない。


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