ニセコ薬師温泉 


 初めてニセコ薬師温泉に宿泊したのは昭和50年頃。小樽駅から汽車で行った
 国鉄昆布駅まで宿主のSさんが、ボンネットの付いた古いトラックで迎えにきてくれた
途中、小さな店でバナナを買っていたのが、印象深く思い出される


宿は車で10分程、小さな砂利道に入り、谷沿いに下っていくと沢底に小さな鰊御殿のような建物
 中はミシンミシンと鳴る長い廊下に客室が並んでいて、素朴な湯治場の様子だった

 


ニセコ薬師温泉全景
ニセコ薬師温泉全景  (昭和50年頃)




 5月の連休なのに日帰り客も無く、泊まり客は私一人だけだった。さっそく、長い廊下を通って湯に向かった。

 
 脱衣場には贈小樽丸井呉服店と書かれた等身大の古い姿見があった。
 湯船は大らかな混浴で日がたっぷり差し込んでいた。
 桶で湯を頭から何杯もかけ、湯船に体を沈めると大量の湯が湯桁から惜しげなくバシャバシャと音を響かせながら流れた。

 足元の石の間からラムネのようにプクプクと泡が出て、体じゅうに気泡がまとわりつき体が軽く浮かされているようだ。
 地上の空気に触れないで湧出したばかりの新鮮な湯を堪能した。
湯船から何気なく窓を見ると木枠に何か動いている。

 蛇がぴったりくっついていた。
 蛇は、宿の周辺に沢山いた。抜け殻も多く、この辺の土地は地温が高いのだろうか。
 



「ニセコ薬師温泉」 湯船

湯殿までの廊下   ニセコ薬師温泉湯船
湯殿までの廊下  朝日が湯船の底まで差し込む (混浴)



医治効能判定と薬師温泉の由来

 薬師温泉医冶効能判定書  薬師温泉由来書き
医治効能判定書 (昆布成田温泉) 薬師温泉の由来書き 

       
      
  薬師温泉の由来

 開祖成田元吉爺さんは磯谷に生まれて明治二十四年(昭和三十九年より七十三年前)
 尻別川を蘭越に来り竹切淵で対岸に渡り湯本から流れてくる沢を更に登って
 当温泉を発見し原始林を伐り開いて温泉を始めました。
 山の中の一軒屋のことゝて熊とむじなが沢山いた由
 当温泉は伊香保温泉に似た良い湯といわれ良くきいたので磯谷はもとより小樽札幌方面や
 各地からお客さんが沢山来るやうになった
 元吉爺さんとやな婆さんはこれら多くの客人達の身体の健固を心から祈り自分達も毎日
 湯浴み出来ることを唯一の楽しみとして感謝の生活を送り元吉爺さんは八十三才(昭和
 二十一年他界当時の男の平均寿命は四十二,六才)
 やな婆さんは九十一才(昭和三十七年他界当時女の平均寿命七十一、二才)と何れも
 平均寿命を大いに上廻るところの天寿を全ふすることが出来ました。




ニセコ薬師温泉の歴史

 

薬師温泉の先代は成田伝吉さんという人で、「磯谷の能津登村 (現在の寿都町島古丹)」に住んでいたが、
 尻別川をさかのぼって温泉を見つけ、明治三十二年五月に許可を受け成田温泉として営業を開始したという。

                               (武井静夫著 豆本“ニセコの山々”より)



 
旅館は昭和16年に小樽市の米山精作さんに譲った。昭和21年8月26日成田伝吉さん没。
 その後昭和25年、秋田県日出地区に入地した戦後開拓団の20戸が、成田温泉を共同住宅として買い取り、
 開拓の拠点とした。

 昭和26年日出に入植した秋田県人合同結婚式を成田温泉にて行う。北海道知事(田中敏文)参列。

 成墾後土地の払い下げをうけると、その土地を個人の所有に分割し、共同生活をやめて昭和29年、
 温泉を佐伯孝雄さんに売却した。
 佐伯さんは薬師温泉として改称して、三国ツヤさんに経営をまかせた。
                                       (参考資料 蘭越町史)
 





「ニセコ薬師温泉」客室

薬師温泉廊下   ニセコ薬師温泉部屋
突き当りの奥の部屋に通じる廊下 宿泊した部屋(薪ストーブと小さな鏡台)襖の前には6畳の和室 





ニセコ薬師温泉の不思議な一夜

 

部屋の電気は、旅館の前に流れている尻別川の支流の馬場川からさらにその支流の小さな川から水力発電機で
 電気を引いているという。
 小さな発電機だが、いろいろ工夫を加えたことなど、詳しい説明を嬉しそうに話してくれた。

夜になると誰もいない他の部屋にも40ワットの裸電球が灯されていて、一時は障子にあたる影などが好ましく
閑寂な気分に浸ったのだったが。

湯船だけは蛍光灯だったので、白熱灯の方が人の肌がよく見えるとSさんに話すと、雨や雪どけなどで川の水流が
急に変化して白熱灯のフィラメントはすぐに切れてしまうので、湯船だけは蛍光灯にして切れないようにしているという。

夕食の合図の知らせなのか、Sさんは長い廊下を大きな足音を鳴らしながら、山菜とレバー炒めの膳を部屋まで運んでくれた。

食後に畳で横になっていると、足音もなく暗い奥の襖障子がスーッと開いたので飛び上るほど驚いた。
布団を敷きにきたSさんのお奥さんだった。


夜は何もすることがなかったので、館内を探検してみた。隣の部屋をそっと覗いてみると、
天皇皇后両陛下の古い写真と祭壇があった。
祭壇には蛇の抜け殻を祀っていた。清浄で神聖な場所へ入り込んでしまったように感じられ、早々に部屋に戻る。

真夜中なのに誰もいない他の部屋にも40ワットの裸電球の灯りが障子を透してボヮーと暗くなったり明るくなったり。
川の流れが影響していたのだろうが、何か神秘的なものがそうしているようにも思えた。
近くで「ギャーン、ギャーン」と人間の悲鳴のような狐の叫び声を聴きながら布団に潜った。

午前2時過ぎに目が覚め、暗く長い廊下を通って湯に向かった。古い姿見を見ないようにして湯船に入った。
ドグロを巻いた蛇が湯桶の中に。
なんとなく落ち着かなく、すぐに湯から上がって部屋に戻った。
もの悲しげに響く笛のようなトラツグミの鳴き声が朝方まで聞こえ、目が冴え眠ることが出来なかった。

 



『薬師温泉』オーナーS氏
(ニセコ薬師温泉玄関前で) 昭和50年頃
 『ニセコの仙人』とペンションのオーナー達から
呼ばれていたSさん



                                             ニセコ薬師温泉の仙人、Sさんの思い出             


 その後、薬師温泉には日帰りで何度も足を運び、友人達ともよく行った。

 当時Sさんの奥さんは体調を崩し、しばらくして亡くなったのだが、友人と行ったとき、
 「奥さんは何処へ行ったのですか?」とSさんに聞くと「霊界に行かれました」と答えるので、友人は(温泉組合の)
 「例会」へ団体旅行にでも行っていると勘違いしているようで慌てたことがあった。
 また、ある時Sさんに昆布駅近くの温泉病院について聞いてみると「あそこはヤブでね、泉質も効きませんな」
 と答え、結局のところ薬師温泉の自慢話になる。

 人を煙に巻くようなユーモアのある話し方をするSさんは、町の人とは付き合いが少ないように思えたが、
 温泉に入りに来るアンヌプリスキー場の麓にあるペンションの若いオーナーとの交流は楽しそうだった。
 ある時、知り合いのペンションの女性オーナーは「ダンナさんを世話してあげるよ」と言われ、
 Sさんに仲人をされるところだったと笑って話してくれた。

 温泉に入った後には、いつも帰りに茶の間に寄って、そんなSさんと談笑するのを楽しみにしていた。
 居間にはクラッシックギターがあり、弾いてみると、いつもの正座した姿勢で目を細めて聴いてくれた。

 旅館のエネルギー源は、薪と沢水と小さな水力発電機。
 Sさんは、それだけで足りているようで、先祖やこの土地に対して祭壇に手を合わせ、
 穏やかに暮らしているように見えた。
 仙人がこの地から離れてからすぐに建物は無くなった。

 その後、再建され、電気も入り、湯船は男女別に仕切りがされて、今は全国から温泉好きの人が訪れているそうだ。



当時湯船は、この混浴の透明湯が一カ所あるだけだった


 

薬師温泉(旧昆布成田温泉)〜現在はニセコ薬師温泉(蘭越町) 






 黒沢温泉の記



  「黒沢温泉」について 


  かつて、ニセコ薬師温泉の上流500メートルのところに「黒沢温泉」があった。
 温泉は42.5度で、成田温泉(湯温 39度)よりやや高めであった。

 浴場を経営していた長万部の人から、岩内の医師黒沢代次郎が大正4年に譲り受け「黒沢温泉」として開業し、
 昭和の初め頃まで、8室程の客室で営業していたが、経営をしていた母のテルが高齢になったので廃業した。

 その後黒沢代次郎の子(テルの孫)、龍雄 雄吉兄弟が移り住んで隠棲生活を始めた。

  龍雄は明治から大正にかけて、太刀雄の名で文芸雑誌などに投稿していた文学青年だった。
 木田金次郎、三岸好太郎、中村善作などの画家志望者たちとも親しく、父の経営する病院で、調剤の仕事を行っていた。

 有島武郎 『生れ出ずる悩み』 (大正七・九)には、主人公木本(木田金次郎をモデルにしている)の親友「K」として登場する

 昭和四年二月五日付けで龍雄宛に出した三岸好太郎の書簡には、

  「いかがお暮しですか。雪にとぢこめられて山荘住まひも一佳あるではありませんか。羨ましいですね。柿でも召し上がれ」と、
 柿の実を二つ水彩画で描いたものと、「これは茶の木の花です。白い憂うつな花です。いつか又うまいものを飲みながらゆっくりと
 話したいと思ひます。その時こそ友あり遠方より来るを感ずるでせう。 黒沢大兄」 と記して、
 茶の花を描いたものとがあったという。

 その後はこの地を拠点に、地元の人との交流もない気ままな暮らしをしていたが、昭和30年代の中ころ、龍雄は岩内に出て倒れ、
 帰らぬ人となった。

 この後も雄吉は一人温泉で暮らしたが、昭和49年5月6日、こたつの火の不始末から出火、建物を全焼させた。
 その2年後、昭和51年1月、雄吉は京極町で没した。


                                                               参考資料  蘭越町史

 有島武郎 生れ出る悩み



  「黒沢温泉」・「薬師温泉」 の縁由について


  「ニセコ薬師温泉」の仙人佐伯孝雄さんは、昭和29年温泉を譲り受けるにあたって、小樽の『薬師神社』に相談したそうだ。
 『薬師神社』は佐伯さんの奥さんが小樽の人で、小さい時から母親に連れられてお参りや、相談事にたびたび訪れていた神社だった。


 温泉経営を後押しされ、温泉は個人のものではないと考えていた信仰心の厚い佐伯さんは、
 新たな温泉の名称を決めかねていたが、この『薬師神社』は温泉の神様でもあるので、「薬師温泉」とすることを薦められ、
 すぐにこの名に決めたそうだ


 自然や万物を崇め、信仰心の厚かった佐伯さんは、薬師温泉の建物の裏手にあった楢の巨木を神木のように大切にし、
 大事に祀っていたという。
 奥さんが亡くなられてから数年後、薬師温泉を離れた仙人佐伯さんもまた亡くなられた。

 この後まもなく、楢の老木もその命を全うするように折れ倒壊したそうだ。

 小樽の『薬師神社』は、昭和48年「黒沢温泉」を譲り受け、この地に『温泉本宮薬師神社』を分院として建立した。
 この本殿には、薬師温泉の仙人佐伯さんの分身のような楢の木の一部が大事に祀られている。
 また、参拝に来る信者さんのために、神社の隣に休憩所を設けているそうだ。








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