二股ラジウム温泉 


奥深い山にあり、石灰華(湯花)で覆われたドーム型の
奇怪な湯小屋が印象的な二股ラジウム温泉

病気療養の湯治客や近在の年配者が多く滞在し、
人情味あふれる素朴な温泉だった

 

  

二股ラジュム温泉全景
二股ラジウム温泉  (昭和50年11月)



二股ラジウム温泉 昭和初期頃
二股ラジウム温泉 (昭和初期頃)   
「北海道温泉案内」昭和7年 札幌鉄道局より
 







昭和50年初めて行った二股ラジウム温泉


 初めて二股ラジウム温泉にを訪れたのは、昭和50年11月。2泊3日。
 夕方遅く予約をしてので、宿主から「夕食は残飯だぞ!」と言われたが、二股駅までジープで迎えに来てくれ、
 この時は気取りのなさが居心地良く、個性的な温泉も面白く一人で二泊した。

 泊まった部屋は六畳間。食事は小学生の子供が廊下を歩きがなら小さな呼び鐘を鳴らし、
 鐘の合図で湯治客はダッダッダッダーと一斉に一階の食堂に集まった。
 昼食は田舎蕎麦が出された。年配者が多い中、若い人が一人ポツリ入っているのが珍しいと思ったのか、
 皆からのジロジロ視線を受けた。


 夕食後、帳場で高齢の宿主と会った。温泉のことについては年齢差を感じさせなく熱心に話してくれた。
 宿主からは久世篤行編「世界の驚異」の復刻版と東京帝国大学教授脇水鉄五郎博士の二股温泉に関する本を頂いた。
 温泉分析書について聞くと、分析書は14枚にもなり、とても掲げることはできないという。
 試験者は北海立衛生研究所吏員 福士敏雄となっていた。
 宿主から福士敏雄さんは、この温泉研究で名古屋大学から博士号を授与されていると自慢して教えてくれた。


  湯殿までは湯治棟から下駄に履き替えて、トタンで出来たトンネルのような通路で、途中二股に分かれ、山側は男女別の湯殿で、
 もう一方はドーム型の混浴だった。夜のトンネルには裸電球がぶらさがって、坑道のようだった。
 湯に入るのは、もっぱら地墳源泉のドーム型湯殿だけで十分だった。
 湯船の足元から熱い泡が出てくる箇所があって、そこにお尻を当てるとよく効くといっていつも定位置にしていた人がいた。

 2日目は相部屋となった。室蘭の製鉄所を定年退職したばかりの方で荷物を沢山持参してきていた。
 インスタントコーヒーをごちそうになり、専門的な仕事の話しを延々と話され小々閉口してしまったが、

 
今はそれも懐かしく思い出される。

 帰りに2泊3日分7千円の領収書をもらい、明細書の欄には煙草代、あん摩代、洗濯代、など詳細に区分され、
 長逗留する湯治客が多いことが分かった。
 小学校の登校時間に合わせて、また二股駅までジープで送ってもらった。




宿の御主人から頂いた二股ラジウム温泉に関する2冊の本

『世界の驚異』 久世篤行  二股ラジウム温泉 本
『世界の驚異』 久世篤行
昭和初期に訪れた二股ラジウム温泉の紀行文
  脇水鉄五郎博士の論文
  温泉の効能などが書かれている
 二股ラジウム温泉の石灰華 
 論文や分析結果等が書かれている本の表紙
  水の素株式会社発行
 


久世篤行    著者の略歴等書かれていないので不明、当時(昭和初め頃)のルポライターではと推測される
脇水鉄五郎  (1867−1942) 地質・土壌学者 理学博士 東京帝大教授
          1922年「地学雑誌」第397号に 『北海道二股温泉の放射性石灰華』 掲載





二股ラジウム温泉の歴史と昭和初期の温泉


二股ラジウム温泉の歴史

 昭和2年当時の二股ラジウム温泉の経営者は、もと函館市議会議員で篤志家でもあった藤村篤治氏で、
 病弱者を救うために議員を辞した藤村氏は、二股温泉の放射性を5年間研究し、春以来八萬圓を投じた仮の温泉場を建て、
 更に昭和3年以降様々な施設を建設する予定であったそうだ。
 温泉には医局があり藤村篤治氏の弟である藤村東夫医学士が、湯治客の相談にのったり、様々な病気と
 二股ラジウム温泉の効果について研究していたようだ。


 二股ラジウム温泉を初めて発見したのはアイヌであるという。
 手負傷の熊がこの温泉に現れて患部を浸しているのをみて、ここを狩場とするようになってからであり、
 アイヌはここを神の湯として病気を治療していた。

 
 その後、秋田県議会議長をしていた嵯峨重良が晩年政治犯から投獄をおそれ、明治三十年に北海道に渡りこの二股の山奥に入り、
 明治三十三年『曽我温泉』を始めたという。
 
 温泉のそばの小高い所に、七十七歳で亡くなった嵯峨重良を祀ったという 嵯峨神社の小さな社がある。 
 拝殿の近くに屏風をたてたように高さ十五六尺、長さ五六十間の岩が、頂上に数百年に達するような樹をのせて出来ている放射性石灰華である。
 この下には鍾乳洞があり、近くには岩の割れ目から吹き出す炭酸ガスのために、鳥や虫が死ぬという鳥地獄と呼ばれているところがあったそうだ。


二股ラジウム温泉昭和初期の様子

 
「二股駅前には二股ラヂオ温泉案内所があり5,6頭の馬が繋がれていた。
 蹄の音が高らかに響きく。 気持ちも響く。 山々は紅葉で美しい。 私はただ馬上でこの景色を眺めながら、山の奥へ奥へと進んでいった。
 美林である。 温泉を今一と息といふ所に小さい流れがあって、立札がある。 “之より仙境に入る” と大きくかかれている」
 
  と、久世篤行の紀行文『二股行き』には
、大町桂月調で興奮しながら書かれている。       

       昭和2年に馬送組合が組織され、二股駅には常時五・六頭の馬が繋がれいて、人と荷物を温泉まで二時間程で届けていた。
       当時の駄馬賃は一人片道一圓三十銭で、浴客を運ぶ一方、道の修繕も兼ねて行っていたそうだ。


 温泉の建物は15棟あり、旧館 自炊宿舎 新館等に分かれている。
 新館は、第一浴場、第二浴場、重症者室、事務室、医局、娯楽室、食堂、売店等で、旧館とテント生活者は室料は無料だった。
 第一浴場は病気の重い人達用に階段の中途に造られ、第二浴場は再下段にあって打たせ湯があり、湯温も高く非常に眺めが良い。
 自炊者には布団や各種道具類の貸し出しもあり、売店では日用品の他米、味噌や副食物も割安に提供し、
 近くの川でヤマベを釣る人には釣竿まで貸し出していた。

 温泉の医局には兄の藤村篤治氏に請われ、新潟医科大学に勤務していた若い藤村東夫医学士が、昭和2年春より生活の場をこの温泉に移し、
 湯治客の部屋を回診したり、入浴回数や療養上の相談を無料でおこない、放射性温泉の研究を行った。
  「この温泉の偉効に就ては早くから聞いて居りましたが、児戯に類するもののように考えていました。まあ、どんなものかと思って
   好奇心から来て見たのですが、医者から見放された重症の者が現代医学を裏ぎるような生活をしていて、病勢が進みもせず、
   反って大多数が健康体になって行く奇現象を見て何が何やら、どうも解釈に苦しんで居る始末です。」と久世氏に語っている。

 また薬品製造のため、石灰華の固着したビール瓶に湧出する湯を詰めた原液を温泉場で製造し、東京へ送っていた。


                                   昭和3年 久世篤行著“世界の驚異”より



 昭和初期から昭和20年頃の戦争の際には、戦地から帰還した傷病兵のため、陸軍療養所として利用され、
 郷土に帰った兵士などから傷に良いと評判が広がり、全国に知られるようになったという。
 その頃から馬道も道路に改良されている。 






昭和初年頃の二股ラジウム温泉

二股ラジウム温泉 全景 昭和初期頃
 昭和初期 二股ラジウム温泉全景 「深山に珍しい立派な温泉場」


二股ラジウム温泉 浴客登山の光景
昭和初期 「二股ラジウム温泉」へ馬で向かう浴客 


二股ラジウム温泉 湯華定着作業
昭和初期 「二股ラジウム温泉」 湯華定着作業の様子 


二股ラジウム温泉 第二浴場
昭和初期 「二股ラジウム温泉」 第二浴場 


二股ラジウム温泉 事務所と医局
昭和初期 「二股ラジウム温泉」 温泉事務所と医局


天然記念物 石灰華ドーム
 昭和初期 
    天然記念物 ラヂオシンター
      (放射性石灰華大沈殿)


世界の驚異 久世篤行著 (初版は昭和3年発行) より





 最初に温泉に行った後、二股ラジウム温泉には何度も行った。

 若い女性2人を含め6人で行ったとき、ドームの混浴に入りに行った女性達に「どうだった?」と聞くと
 先に湯に浸かっていたおじいさんから「白い肌ねぇ〜」としみじみと言われとても恥ずかしかったと、
 いがいに楽しそうな様子で説明していたことが印象に残っている。


 今は、経営者も代わって、ドーム型の浴室も無く、建物は新しくなっているようだ。





 昭和50年頃 「二股ラジウム温泉」
      ドームの前の露天風呂
 




二股ラジウム温泉(旧曽我温泉 長万部町) 



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