札幌第一農園
安部信明氏 系譜


宮沢賢治が導いてくれた歴史旅行
 
 昭和2年 宮沢賢治が花巻温泉南斜花壇造成に使用した種苗を取り寄せたと思われる
 『札幌第一農園』 農園主 安部信明(アンベ ノブアキ)


 日本で最初に医学博士の称号を受け、近代医学の基礎を築いた池田謙斎の二男として生まれ、
 後に安部家の養子となり、三河半原藩(岡部藩)主家15代子爵となった。


 宮沢賢治が関連した種苗店として調べ始め、田上義也が設計した『札幌第一農園』だったが、
 幕末の時代まで遡って、いつの間にか歴史の旅に出かけていた。




池田 謙斎 
略 歴
  安部  信明 
略 歴  
  池田 農場
長沼町(現)
  札幌第一農園
カタログ
 
 
  札幌円山郵便局 
田上義也設計  

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安部信明(池田次郎)と父 池田謙斎 


池田 謙斎について

 池田 謙斎(入澤桂助・謙輔) 略歴 

 池田謙斎は、 1841年11月1日 越後の新発田藩中之島西野で入澤健蔵の次男として誕生。(幼名 入澤桂助)
 1858年17歳の謙斎は、西洋医学を学んでいた兄恭平を頼り江戸に上がり緒方洪庵の門下生となった後、
 池田玄仲(幕府奥詰医師)の養子となり長崎伝習所で蘭医師ボードインから生理学と眼科学を学ぶ。

 慶応3年(1867年)   大政奉還の混乱後長崎を脱出し江戸に戻り、1868年池田玄仲の長女天留子と結婚する。
 明治2年(1869年)   東京医学校(東大医学部前身)の大助教兼小典医となる。

 明治3年(1870年)   (謙斎29歳)ドイツ医学の評価が高まり、大学よりプロシア(ドイツ)留学を命ぜられる。
                ベルリン大学で医学博士の学位を得た後の1876年帰国するが、
                この留学中に養父玄仲、妻天留子死去。

 明治9年(1876年)   陸軍軍医監となり、区内省侍医を拝命し東京帝大医学部総理に就任する。 
                この年玄仲次女幾子と結婚。
 明治11年(1878年) 5月二男次郎(安部信明)誕生。

 明治19年(1886年)  宮内省侍医局長官に任ぜられ、明治天皇の侍医となる。
 明治20年(1887年)  (謙斎46歳) 妻幾子死去。 玄仲三女甲子(きね子)と婚姻する。
 明治21年(1888年)  日本最初の医学博士の称号を受ける。

 明治30年(1897年)  陸軍一等軍医正となり、1898年男爵を授けられる。
                    この頃より北海道石狩国夕張郡長沼村の土地払い下げを受け始める。
 明治35年(1902年)  (謙斎61歳)宮中顧問官を任ぜられる。 この年妻甲子亡くなる。

 明治43年(1910年)  北海道夕張郡長沼町(現) 『池田農場』を開く 経営は二男次郎が行う。
                    この間 『池田農場』来訪
 大正2年(1913年)   『池田農場』を斉藤農場へ譲渡
 大正4年(1915年)   旭日大勲章を授けられる。
 大正5年(1916年)   8月 新潟を訪れ寺泊町で3泊し、故郷の西野に里帰りをする。

 大正7年(1918年)   (謙斎77歳) 4月30日東京大森別邸で死去。 
                この年の11月医学の道を歩んでいた長男秀男死亡。


謙斎は宮中職を退いた後、自宅で『成蹊堂医院』を開き自宅診療を始めた。
午前中だけの診療だったが、門外まで診察を待つ人の列が続いていた


子供には、一人々女中さんがついていたので、じかに話をすることは少なかった。
それでも食事には非常に気をつかっていて、牛乳を子供達に多量に飲ませました。

子供たちは皆両親を大変に尊敬しておりました。
父といくらか対等に話の出来たのは、長兄の秀男兄くらいのものでした。
                               (謙斎3女 高崎斐子談)

『明治天皇の侍医 池田謙斎』より一部引用及び要約 



池田謙斎生家 入澤家系図

池田謙斎生家 入澤家系図 
祖先は鎌倉北條氏・左馬時俊の子孫。
慶長九年(1604)、越後・新発田藩中之島組西野を開拓した。
身分は藩制時代の名主職である。
入澤一族は、その後医学で身を立てることを決意し、
熊の森の竹山家・加茂の森田家・津和野藩の池田家などの支援のもとに
西洋医学界に君臨する。


          西洋医の元祖   入澤恭平
           日本初の医博   池田謙斎
           大正天皇侍医頭  入澤達吉



『入澤記念庭園』 土蔵   池田謙斎
『入澤記念庭園』内の修復された土蔵に
遺品などの資料が展示されている
 池田謙斎 


入澤記念庭園

新潟県長岡市中之島西野の池田謙斎 (札幌第一農園 安部信明の父) の生家跡地
近代医学の祖となり、明治から大正、昭和 の初めにかけて医学界に貢献した
入澤恭平(謙斎の兄) 入澤桂助・謙輔(池田謙斎) 入澤達吉(恭平の長男) の資料を、
入澤家の土蔵で展示し、一般公開している
 

                                                           


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安部 信明について


 安部 信明(池田次郎) 略歴        
明治11年  1878年5月19日 0歳
池田謙斎二男池田次郎として生まれる
母は池田玄仲二女幾子
明治17年 1884年4月 6歳  学習院初等科入学 明治25年3月まで在籍 
明治25年 1892年4月  14歳  独逸語学校にて明治28年3月まで  独逸語 普通学修業
明治28年  1895年4月  17歳  東京府城北中学校二年級に入り明治32年3月卒業 
明治32年  1899年4月  21歳  東京早稲田専門学校 明治33年9月まで在籍 
明治33年  1900年10月  22歳  東京早稲田中学補修科 明治34年4月まで在籍 
明治34年  1901年  23歳  札幌農学校予修科 入学 明治37年7月卒業
明治37年  1904年  26歳  札幌農学校本科在学 明治40年より東北帝国大学農科大学在学 
明治42年  1909年  31歳  東北帝国大学農科大学7月卒業 (農学士) 
              ー在学中に遠友夜学校の教師を務める
明治43年   1910年  32歳 北海道石狩國夕張郡長沼村 自営農業 
明治44年  1911年2月2日 33歳 關谷篤三 次女 と婚姻
大正2年 1913年7月4日 35歳 子爵安部信順の養子となることを届出る。安部次郎
           (大正3年信明と改名し安部信明となる)
 住所 東京市(父池田謙斎邸) この年の職業は実業
大正4年  1915年  37歳  小寺瑞山農場主任  (朝鮮忠清南道瑞山郡瑞寧面吾南里)
大正5年  1916年  38歳  小寺瑞山農場主任  (朝鮮忠清南道禮山郡徳山)
大正6年   1917年   39歳   自営農業の後 
北海道拓殖銀行書記
 住所 札幌区北2条西2丁目2 關谷篤三方
    ー本郷菊坂の住まいから池田農場のため札幌に移り住むー
                       (長女 安部恭子記より)
 
大正7年  1918年  40歳  4月30日  父池田謙斎逝去
11月23日 兄池田秀男死去
大正11年  1922年  44歳  実業 
 住所 札幌市南2条西13丁目(大正7年から)
大正12年  1923年 45歳 農業家として 「報恩学園」評議員を務める
昭和元年 1926年 48歳  種子業、種苗商 『札幌第一農園』を興す
  (自宅増改築により)田上義也設計 札幌市南2条西13丁目
 
昭和5年  1930年 52歳  1月6日 祖母久子死去(享年102歳)
『札幌第一農園』店舗を円山5丁目(南1条西24丁目)に新築移転
                             田上義也設計 
昭和14  1939年  61歳  無職  (この頃、完全に店舗は閉店の様子)
 住所 札幌市南二条西十三丁目三一九ノ三
昭和17 1942年 64歳   住所 札幌市南十七条西五丁目
昭和19年  1944年 66歳  1946年まで北星女学校 (現北星学園女子中学高等学校)
      動物・植物学 教師を務める
昭和21年  1946年12月13日 68歳  死去  同日爵位返上


             關谷篤三氏  (安部信明夫人 裕の父) 
                                      司法省学校出身、札幌地方裁判所の予審判事を経て弁護士となる



幼い頃、私どもは本郷菊坂に住んでいた。そこから近い駿河台にはよく伺い、泊めていただいた。
千坪に近い手入れの行き届いた植え込みのある中を、祖父謙斎は妹と私の手を引いて面白いお話を聞かせて下さった。
妹はまあるい眼をして、くりくりに太っていて、久子曾祖母様のお小さい頃にそっくりとかで
お気に入りであり、祖父の膝を占領していた。謙斎晩年の頃のことである。

その後、私ども一家は池田農場のため札幌に移った。
池田家の後を継いだ秀男の次男池田真次郎氏は、北大に進学したので安部家によく来られ泊まっても行かれた。
                                  (信明長女 安部恭子談) 

二男の次郎兄は、明治の終わりになって、佐野常民伯爵のお世話で元岡部藩主安部信順の
養子となり、安部信明となった。 安部家は徳川家康以来の譜代大名で、その頃子爵でした。

次郎兄がある時宮中の御会で、徳川家正氏にお会いした時「貴方の御父上には大変御世話になりました」と御挨拶があったそうです。
                                 
(謙斎3女 高崎斐子談)

                                    
 『明治天皇の侍医 池田謙斎』より一部引用及び要約




池田謙斎家族写真 明治10年代初期   池田謙斎逝去後家族写真 大正7年
    明治10年代初期、 家族と

         後列左より   池田謙斎  妻・幾子(次郎母)
         前列左2番目  池田次郎(安部信明 ) 
         前列左4番目  池田久子(次郎祖母) 
   大正7年謙斎逝去後の家族 (駿河台自邸)

     左3番目より  高崎斐子  祖母久子 池田次郎(安部信明) 
  

 『明治天皇の侍医 池田謙斎』より





安部家系譜
安部家系譜
岡部藩 安部家

武蔵国榛沢(はんざわ)郡岡部(現 埼玉県深谷市)に藩庁を置いた譜代小藩
藩祖は徳川氏譜代の家臣・安部信盛で、以後代々大阪定番を務め、
以後維新まで安部氏が支配した。

1868年(明治元)新政府に従い、藩の所在地を武蔵国岡部から
三河国半原(現 愛知県新城市富岡)に移り、半原藩(はんばらはん)と改称した


明治17年(1884年) 華族令の制定により(武家 諸侯)子爵に列せられた。
昭和21年(1946年)信明の没後は襲爵はされず爵位は返上された。


参考資料 
   高崎斐子                明治天皇の侍医 池田謙斎
   長谷川つとむ著            東京帝大医学部総理 池田謙斎伝
   中之島町教育委員会         入澤家の人びと
                         入澤記念庭園
   吉田南総(重貞)著           北海人物評論
   札幌報恩会               札幌報恩会70年の譜
   霞会館華族家系大成編輯委員会  平成新修旧華族家系大成
                         北星学園女子中学高等学校
  
  小学館                  日本歴史大辞典
  池田文書の研究 上下         東大医学部初代綜理池田謙斎
  札幌農学校薄書「予修科入学願書綴」  北海道大学大学文書館蔵より
                         (文書館様にくずし字解読をして頂きました)
   『札幌同窓会報告』            北海道大学大学文書館蔵より
   札幌同窓会『会員名簿』
                 々

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池田 農場



 
 
 池田次郎(安部信明
)の父池田謙斉は、明治30年頃から石狩国夕張郡長沼村(現長沼町)の農地の払い下げを受け、
 明治43年には池田農場を開設した。
 

 経営に当たったのは、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)を卒業した池田次郎(安部信明)で、謙斉の故郷である
 新潟県中之島西野からは広田広吉を呼びその管理にあたらせた。

 夕張川沿いにあった池田農場は、毎年のようにおきる水害による甚大な被害を受け、3年程で閉鎖され、
 斉藤農場へ譲渡された。



長沼町 池田農場事務所 池田謙斎他記念写真

    北海道夕張郡長沼村西4線北5番地の池田農場事務所にて (明治四十四、四十五年頃と思われる)


  後列左より 広田広吉(農場監督)
  前列左より 広吉長男の徳一郎 広吉の母ふき
 池田次郎 池田謙斎 池田次郎夫人裕 
         一人置いて広吉の妻トヨ



        写真提供 長沼町広田牧場 広田康男様(広吉の孫)




馬追原野区画図 池田農場事務所   
大きな地図で見る 
馬追原野区画図  (長沼の歴史)より  現在の池田農場があった場所 



 

池田農場の誕生


  池田謙斎は明治30年(1897年)北海道夕張郡長沼村の土地を払い下げにより取得した。
  その後も数回新たに土地を取得し、次男の次郎(安部信明)も何度か土地の払い下げを受けている。

  謙斎が所有していた土地の変遷    明治44年 181(町)
                          大正2年  20(町)
                          大正3年  16(町)                
                                                     ー長沼町の歴史下よりー

  池田次郎(安部信明)が明治42年(1909年)東北帝国大学農科大学を卒業した翌明治43年に、
  旧夕張川南東で『志村農場』を経営していた場主が亡くなったため、これを池田謙斎が譲り受け『池田農場』を開いた。

  実際に経営にあたったのは池田次郎(安部信明)で、謙斎の故郷新潟県中之島西野からは広田広吉を迎え監督に当たらせた。
  また長沼町西4線北5番地には、洋風の事務所を建て、当時70歳にはなっていたと思われる池田謙斎も長沼村を訪れ
  事務所の前で記念撮影を行っている (上記の写真)


 池田農場の経営

  『池田農場』の土地は堤防がなく毎年のように氾濫をおこしていた旧夕張川沿いで、
  池田次郎(安部信明)は明43年 北三号から北九号迄自費で村の工事を待ちきれず小堤防道路修築を行う。

      明治四十三年に池田次郎という人が、自力で築堤したが、それ以前に堤防はなかった、
      この堤防は高さが五、六尺ぐらいで、木詰から、北八号まで造りました。
      対岸の幌向側は、明治三十年ごろにはすでに堤防が木詰のあたりまでできておりました。
                                           ー長沼町の歴史下 みんなの話より抜粋ー


  『池田農場』は明治四十三年(1910年)から、大正2年(1913年)の3年間の経営であったが、全地域 (ほぼ現在の九区)
  の用水事業に努力して水田化している。
  それは、東京ドームの約百倍という広大な面積だった。
  経営に当たった次郎(安部信明)は、自ら土功組合に請願書を出し(書面での願人名は池田謙斎)、
  部落の区長(明治四十四年四月~大正二年六月迄)も務めた。



 池田農場の撤退 斉藤農場へ譲渡

  斉藤農場は もと福井県人斉藤末吉の所有で、大正2年6月池田謙斉および池田次郎らから買い受けたもので、
  総面積百四十九町歩、内水田八十町、畑五町、荒無地六十四町である。現九区旧夕張川沿岸にあったため
  水害に苦しみ、さきの持主池田個人で、旧夕張川に堤防を築くなど対策を講じたが、結局経営困難となり斉藤へ売渡した。
  大正六年名義は斉藤甚之助に変わったが、大正五年現在小作戸数二十数戸、管理人は広田広吉であった。




『池田農場』監督広田広吉氏は、新潟県南蒲原郡中之島西野で毎年のようにおきる大洪水と凶作、
そして明治38年に自宅が火災で消失してしまったため、初めて北海道移住を決心し、
翌明治39年家族4人で、北海道雨竜郡雨竜村オシラリカへ入植する。
その後明治43年3月東京の男爵池田謙斎の依頼により、長沼村へ移住し安部信明(池田次郎)と共に
『池田農場』を管理することになった。
                                   ー廣田家緒 (廣田廣吉記)よりー





入植者の土地の払い下げに関する当時の法律などについて


 池田謙斎が北海道の土地を払い下げにより入手し始めた明治30年(1887)は,
 『北海道土地払下規則』 (明治19年6月29日~明治30年までの移住に関する法律)を廃し,
 『北海道国有未開地処分法』ー旧法ー が施行された。 (旧法は明治30年4月1日~明治41年までの移住者に適用された法律)

 この法律により、「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,
 1人当たりの貸し付け面積の上限が大幅に引き上げられた。
 資本家には、100万ha以上の大面積を無償で提供し、成功付与審査 (貸し付けられた土地は、検査され開墾されたことを認められると
 その分だけ自分の土地になる) によって自作農になるか、
 あるいは団体で大面積の貸付入植をして付与審査の後個別の自作農になるというもので、成功検査も曖昧なものだった。


 「開墾もしくは植樹に供せんとする土地は無償にて貸付し、全部成功の後、無償にて付与」するというもので、
 一人に対する面積も開墾用としては500町歩、牧畜用には833町歩、植樹には666町歩と大きなものだった。
 また
投機目的で貸付を受けたものも多く、不在大地主が増え一般に広く知られるようになる。

 一方資金の少ない者は不在地主農場などの小作農になる、あるいは開墾した面積の半分を自作農地として登記する契約で
 小作農となる、または小作料を払いながら資金をため将来には
農地を買い取るというようなものだった。

 『北海道国有未開地処分法』ー新法ーについては、明治41年以降に入植した者に適用された法律で、
 旧法との違いは、未開地は売り払いによって行われること、
売払面積の制限は個人は耕作地500町歩、
 牧場および植樹地は800町歩となり、会社や組合の場合は個人の5倍まで売払が可能になった。


 これまで検査を受け、開墾出来た土地だけ売り払われていたのが、出願した土地は最初に売り払われることになった


池田農場 築堤図
長沼村九区の池田農場、と旧夕張川の築堤図 
緑色線で囲んだところから旧夕張川までがおおよその池田農場敷地
木詰(北三号)から北九号まで、夕張川の長沼側を個人で築堤した

 『長沼町の歴史』 馬追原野区画図より  (色文字及び記号はfield記入)


 旧夕張川 対岸より馬追丘陵を望む
旧夕張川 対岸(南幌町)より長沼町馬追丘陵を望む  2012年5月24日




旧夕張川について


 現在長沼町と南幌町の境界を流れる『旧夕張川』は、もともと夕張川の本流で、千歳川に合流する下流部に当たり、川幅も千歳川と同じ位あり、
 かつて「男の川」と呼ばれ、毎年のように大洪水を起こし6mもの堤防さえ破り、瞬時にあたり一帯を泥の海と化してしまう暴れ川だった。

 一方親川であった千歳川は、合流後の川幅は狭くなり、水面の勾配はゆるやかで、洪水時は、支川が増水するとたちまち
 押し戻されたりすることから 「女の川」と称されていた。
 
 夕張川をこれまで親川だった千歳川から切り離し、幌向原野に新たな水路を掘削して直接本流の石狩川へ流す『夕張川新水路』工事が
 明治43年に計画された。
 しかし、財政難で工事の始まりが遅れ、泥炭湿地な軟弱地盤の難工事で、昭和11年にやっと通水された。

 このことにより、夕張川は石狩川の支流となり、長沼町と南幌の間を流れるかつての夕張川の下流部であった暴れ川は 『旧夕張川』と呼ばれ、
 夕張川分流・千歳川支流となった。


 また、旧夕張川の最下流部の大きく曲がっている水路は
木詰(きづまり)と呼ばれ、ひとたび大雨が降ると大量の流木がたまって
 水の流れを止めるため洪水の元凶と言われていた。
 現在でも木詰という地名が残っていて、いかに厄介な場所であったか想像することができる。



2012年5月24日 (夕張郡長沼町九区―池田農場があった場所ー )

   九区 稲荷神社  (長沼町西5線北5番地) 社殿と由緒書き 
長沼町九区 稲荷神社 長沼町九区 稲荷神社 社殿
 稲荷神社前 水田地帯 稲荷神社
御祭神正一位稲荷大明神宇加之魂神
例祭  九月九日

由緒
此の地は明治四十四年頃天皇の侍従医であった新潟県人男爵池田謙斎
所有地であったが夕張川に接近したる低地帯である為例年の如く
水害を受け農作物に大被害を及ぼし小作人は困苦に耐へ開墾を進めて
来たが大正二年福井県人斉藤末吉が買い受けマル竹斉藤農場となる
後大正六年に斉藤甚之助に渡る小作人戸数は二十数戸管理人は
廣田廣吉であった。この農場は通称マル竹農場として知られ斉藤甚之助に
移譲後は廣田廣吉後山中勝次郎が管理人として農地開放まで存続した。
現在祀られている稲荷神社は大正六年九月九日御本殿並に保護社殿弊社
殿が斉藤甚之助をその小作人一統により水の災いを防ぎ五穀豊穣を
祈念して創建されたもので京都の伏見稲荷大社の御分霊を奉斉し創社された

             (由緒書き以下略)  
稲荷神社前は水田地帯が広がっている。 田植えが行われていた 

池田農場事務所は、この稲荷神社の50メートル程後方の少し小高くなっていた所にあった



旧夕張川 対岸より木詰方向を望む
旧夕張川北5号対岸(南幌町)より 長沼町木詰方向を望む 2012年5月24日


              
               池田農場と長沼村『土功組合』

 長沼土功組合は、明治四十四年に、用水路は完成していたが、いろいろな理由で、当初計画の二千町歩の
 半分にも達していなかった。
 そのため組合の経営が苦しく、このままでは組合の存続さえも危ぶまれる状態に追い込まれていた。
 こんなとき、有力な地主の一人、池田謙斎から組合加入の請願がだされた。
 その内容は、組合にとって大変有利なものであり、九区全域の水田化に寄与する内容を含んでいた。

  請願趣旨
    長沼村土功組合灌漑幹線以下北十一号から南六号に至る一帯の土地約四百七十余歩を
    組合区域に編入されんことの請願書         以下略
        
          大正二年三月一日  願人 池田謙斎   以下連署 五十八名

         


 謙斎らの請願を受けた組合は翌大正三年七月、道に区域変更と水利権の増加を申請し、
 大正五年から工事にかかり六年に完成、組合の経営を確立し、この拡張によって、九区の全域の造田が進んだ。

 大正十四年十月 「長沼村土功組合記念碑」を長沼土地改良公園に建立し、碑の裏面の中に評議員として
 子爵安部信明・広田広吉の名を刻み、同時に父謙斎と信明、広田広吉に記念品銅製火鉢を贈って、
 その功に報いた。


                   ー 『長沼町第九区百年史』より一部抜粋及び要約

土功組合
    明治35年(1902)年に北海道土功組合法が発布され、費用を国から補助を受け、
   灌漑用水溝を掘り水田を造成する土功組合が、全道各地に結成され始めた

   長沼村は明治40年(1907) 『長沼土功組合』
が設立された。
   昭和26年(1951
)昭和24年の土地改良法施行に基き、土功組合は土地改良区と変更される。


2012年7月20日  長沼土地改良区記念公園

 『長沼村土功組合記念碑』  『長沼村土功組合記念碑』正面
大正14年 『長沼村土功組合記念碑』    長沼村土功組合記念碑正面 
 『長沼村土功組合記念碑』裏面  『長沼村土功組合記念碑』裏面





『長沼村土功組合記念碑』裏面に、創立発起人 組合長
評議員議員の名が記されている
 
評議員として 子爵 阿部信明(安部) 廣田廣吉
の名が刻まれていた
長沼土地改良区モニュメント みのりの像 長沼土地改良区碑文 
豊水碑 神社
大正14年『長沼村土功組合記念碑』建立から現在までに
記念碑や像モニュメント等が多数設置されている 
長沼土地改良区碑文 





 池田謙斎・次郎(安部信明)親子にとって農場経営ということはどの様な意味があったのか。

 謙斎が農地を払い下げによって入手したのは、19歳の次郎が中学校に通っていた時期だった。
 医学の道で成功し、当時北海道の土地払い下げについての情報は謙斎の人脈からして簡単に入手できたと考えられ、
 最初は投機という意味合いもあったのかもしれない。
 しかし、まだ進むべき道が決まっていなかった次郎を 23歳(明治34)で札幌農学校に入学することを勧めたのは謙斎だったとおもわれ、
 将来は農場経営を任せようと考えたのだろうか、それとも次郎が父の謙斎に北海道に行くことを願い出たのだろうか。

 長男の秀夫と甥である入澤達吉が、医学の道を順調に進み、越後の庄屋出身であった 謙斎は、幼い頃自然の中で家族と過ごした暮らしを
 懐かしく思い、また他の子供たちなどのことも考え不在地主として、農場経営をすることを決めたのではないだろうか。

 また払い下げられた長沼村の土地は、故郷である新潟県中之島西野 (現新潟県長岡市中之島西野)と同じように、
 川の氾濫によって水害に苦しめられ続けていた場所だった。
 もともとの実家である入澤家が、治水に力を注いだように、謙斎の子である次郎(安部信明)もまた、北海道という新天地で氾濫を繰り返す
 川を治めようと奔走することになる。


 入澤一族の家訓

    「世ニ守銭奴ト卑下サレル者ヨリ、金銭ハ生来人格ニ以ッテ貴重ノ必要欠クベカラズモノナレドモ、大切ナルハ人間ノ教育ニ在リ。
    遺産ヲ作ルヨリ教育アル子孫ヲ遺スニアリ。ヨリ教育アル子孫ガ人格ヲ高メ、社会ノ位置ヲ高ムルニハ、金銭ノ力ヲ入用トス。
    深ク思イヲ致サザルベカラズ。」                     
                                                         -入澤家の人びとーより抜粋

 この家訓を守るように入澤一族は、医者の道に進み、地元で開業する者を多く輩出している。


 医学界で道を究めた晩年の謙斎は、池田農場を譲渡して3年後の大正5年、故郷を訪れている。  
 この2年後の大正7年、謙斎死去(享年77歳)。

 次郎(安部信明)はその後種苗業で身を立て社会貢献をしようとするが、志半ばで終戦の翌年 昭和21年68歳で生涯を終える。

 


  晩年の池田謙斎が何故北海道の土地を取得し、困難極まる農場経営をすることにしたのか本当のことは分らないが、
 いつの日か謙斎の農場にたいする思いを知ることができた時、『池田農場』について続きを記したい。



参考資料  
  長沼町史編さん委員会    長沼町の歴史 上下 
  長沼町史編さん委員会  長沼町九十年史 
        々   付年表 
  長沼町歴史研究会 伊藤兼平著  馬追丘陵 
  石狩川開発建設部  石狩川流域誌 
  辻村もと子著  馬追原野 
 長沼町第九区百年史編集委員会 長沼町第九区百年史
 長沼町広田牧場 広田康男様 
             (広田広吉の孫)
 
広田家緒  
池田農場写真他

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札幌第一農園
 

昭和四年春季カタログ】・【タネの研究第一号】



  安部信明(池田次郎)は昭和元年、当時新進の建築家であった田上義也設計で、自宅の増改築により
  種苗店 『札幌第一農園』を興す。

  昭和2年に宮沢賢治が設計した花巻温泉南斜花壇に使用した種苗の一部は、この『札幌第一農園』から
 取り寄せたと思われる。

 昭和5年には、円山に同じく田上義也設計で、自宅兼店舗が建築された。
 
 『札幌第一農園』安部信明も農学士であり、北海道農業試験場の技師らと種苗について研究会を開くなど
 熱心であったが、 販売という面では芳しい結果を得ることが出来なかったようで、店舗は十年程で閉店する。


 実際に目にすることができた 『札幌第一農園』 【昭和四年春季カタログ】【タネの研究第一号】について
 紹介したい。





昭和四年春季カタログ】

『札幌第一農園』昭和四年春季カタログ  『札幌第一農園』昭和四年春季カタログ
札幌第一農園昭和4年春季 カタログ表紙  見開きページ 上部



  1ページ目上段 挨拶文抜粋
    
   感謝に満ちて


 昭和三年十月二十一日 弊園研究會主催創業満三周年記念講演會を開き
 恩師理学博士宮部金吾先生初め諸先生の御講演を聴く 洵に感謝に堪えず。

 是れ亦 偏にお得意各位の 御脊顧の賜と信じて胸躍る。
 曠古の御大典に際しては辱けなくも 召されて御即位式 大饗夜宴の御儀に列するの光栄に
 浴し只管感涙に咽ぶ。


    活用を望む

 御大禮記念事業の一部として 弊園満三年を有意義ならしめ左記方法により喜びを共にせんとす
 一、タネの研究第一号(満3年記念講演集)を上梓次の如く各位へ頒つ(第二号以下続刊の見込み)
       (中 略)
 希くば微衷を諒とし本誌を活用せられ永遠の御愛顧を垂れ給はんことを
 然り 活せば
 一切が恩恵なり 一切が福祉なり
                             安部信明謹誌



『札幌第一農園』 昭和4年春季のカタログは、特別に思い入れの深い号であったようで、  創業満3周年に当たって、タネの研究会の記念講演会を恩師である宮部金吾博士を迎え  開催することができ、また昭和天皇即位の礼 (昭和3年11月に行われた御大礼)へ列席し たことが重なり最大級の喜びを表している。

この講演会の内容は、小冊子『タネの研究 第一号』として発行し無料で得意先などに配布している。

カタログの最終ページには、一般向けの園芸書から、専門的な農業全般にわたる書籍の通信販売が掲載されている。
90冊程も紹介されていて、その中で目を引くのは、社会教育家の
後藤静香
の本が15冊も載せていることだ。

後藤静香への傾倒はかなり強いものの様で、カタログ挨拶文最後に、
一切が恩恵なり 一切が福祉なり」と書かれてあることからも分かる。

『報恩学園』の評議員をしていたことにも関連しているのだろうか。


カタログの内容は、当時他の種苗店で流通されていた種苗や農具の他に、『札幌第一農園』が直輸入していた、イギリスの「サットン社」
アメリカの「ヘンダーソン社」の種が多く扱われ、ドイツからも直輸入していたようだ。

またタネの研究の為に主要品種には、所属科名 英語表記等が記され、特徴や栽培の要点 分類目次も巻末に掲載されている。

『札幌第一農園』昭和四年春季カタログ

『札幌第一農園』第15号昭和4年春季カタログは Rose-colored Glasses の Harumaki 様からお借りしコピーさせて頂いたものです



宮沢賢治も「サットン社」等から種を大量に購入していた時期もあり、
札幌から取り寄せたカタログの中でも特に研究熱心な『札幌第一農園』に共感、興味を持ち、
賢治が設計した花巻温泉南斜花壇に使用する種苗を取り寄せたのではないだろうか。
 





タネの研究  第一号
札幌第一農園 創業満三年 記念講演集



札幌第一農園 タネの研究 第1号  タネの研究 序 タネの研究 第1号
タネの研究 第一号表紙   序 目次 

タネの研究 第一号 field 所有


札幌第一農園写真版
講演會出席者記念撮影並に店舗  (タネの研究第一号 写真版より)
                                                                                         
前列右端は、広田徳一郎 (池田農場監督広田広吉の長男)  
            安部信明やその子供達は、頻繁に長沼町の広田家を訪問しており、
            生涯広田家とは親しい付き合いをしていた


営業主任 上田源松氏 札幌農学校園芸科出身で、安部信明とは遠友夜学校の教師仲間
             北海道種苗農具(株)・北日本農場等在籍(大正~昭和年代) 




 タネの研究第一号は、B6判位の大きさで、30ページ程度の小冊子。

 内容は札幌第一農園満3周年記念講演集、出席者の記念写真と店舗の写真。
 当時、北海道帝国大学総長 佐藤昌介、 北海道農会長・農学博士 南鷹次郎 より農園満3周年の祝辞が述べられた
 手紙も掲載されている。


 講演者は、宮部金吾博士と北海道農業試験場から2名、園主である安部信明は序で以下のように述べている。

   
タネの研究第一号成る。タネは田根であるが故に、農業の本であり、国富のであると云ひ得る。
    一粒の種子、地に播かれて死なば百千萬倍となりて報ひらる。此の平凡な真理こそ、
   吾人の生命を完全に活かし得る道であり、力であるべきである

    我等は之が研究に一生を捧げることを証とせざるならず、尊き使命と信ずる。
   敢えて其の結果は問ふ所でない。研究即報酬であり、喜望であるからである。一言以て序となす。

         昭和四年一月       札幌第一農園主  農学士  安部信明



 講演会出席者の記念撮影された部屋は、札幌第一農園の店舗ではないかと思われる。
 靴を履いたままで、右側には種を入れてあるのだろうか沢山の小引き出しが見える。

 また満3周年記念講演会とうたっていても
出席者は、前列に写っている来賓の講演者と、後列には従業員と
 安部の家族と思われる者も写っている


 【昭和四年春季カタログ】 に掲載されている大げさとも思われる挨拶文とは対照的で微笑ましく見える



宮部金吾博士  植物学者。植物分類学・植物病理学 (1860~1951) 江戸出身
          札幌農学校第二期生(明治14年卒業)後、助教授に就任。
            3か月にわたる道内、千島 サハリンの植物調査研究で生物分布境界線(宮部線)を
            設定し、また札幌農校附属植物園の創設に尽力した。

           東京大学で植物学、 ハーバード大学で海藻・菌学を学び、帰校後は教授となり、
            明治33年に初代植物園長となった。

          同期の新渡戸稲造が開設した慈善事業の遠友夜学校では昭和19年に解散する時まで
            理事を、また学生寮である恵迪寮の舎長も昭和21年まで務め、人柄は温厚で誠実、
            敬虔なキリスト教信者でもあった。田上義也氏が運命的な出会いをしたバチェラー博士
            とは、植物園を介して親交をあたためていた。

            宮部博士の父式臣(しきおみ)は松浦武四郎と懇意の間柄で、幼少期から武四郎の話を
            聞き、著書を見ていた宮部博士は蝦夷地の植物に興味をもつようになった。



         
       種苗と病害の関係に就て…………理学博士  宮部金吾 (一)


  本日は私の親友安部君御経営の札幌第一農園創業満三年記念の會を御催しになりますので、
 私をも御招待下さいまして、何か一言御話をする様にと云ふことでありましたが、
 私は多分一場の祝辞でも陳べればそれで宜しいこと々思ひ御受けをしたのでありましが、
 一昨日亦安部君が見えられまして、これまで店に研究會と云ふものがありまして
 月に何回か必ず店員又は店に関係ある者等が其研究の結果を夫々発表しあって来ましたが、
 此度の場合にも記念會順序の一部分として研究會を開催することにしましたから、
 私にも私の専門に関することを話してくれとの御注文でありましたので、私の考えがすっかり
 ちがいました様な譯であります。殊に其話はなるべく簡易にして貰いたいと云ふ様な
 色々な御注意がありましたので御座いますが…私は大学で植物病理学を擔當して居りましたので、
 種苗と病害の関係に就て何か御話ししてみたいと思います。    以下中略

  如何にしても種苗業なる事業は国家経済上大切なものであって、斯様な札幌第一農園の如き
 主義方針の下にある確実なる信用の出来る會社商店の続々出ることを希望して已まぬものであります。
 甚だ常識的の事を申し上げて済まぬ様に思ひますが、此の記念しべき札幌第一農園創業満三年の
 祝會に當り、安部君の御精神と私の考と一致して居りますことを深く感じ遠慮無き所感を述べ
 祝辭にかへた次第であります。



宮部金吾博士の祝辞の部分は、宮沢賢治が描く童話の世界を彷彿させるようだ。

宮沢賢治が羅須地人協会で行われていた肥料設計や、農事講演 勉強会 種苗の頒布や交換などを、病の為頓挫することなく続けていたなら、安部信明の異常なほどの式典に掛ける情熱にも負けてはいなかったろうと思う


宮沢賢治は北海道を3度訪れているが、1913年 盛岡中学校の修学旅行と、1924年 花巻農学校教師時代の修学旅行引率では、現北大附属植物園を見学している。

植物園長であった宮部博士は、1924年まで園内に建てられた官舎に住んでおり、朝夕園内の植物を見てまわっていたそうなので、賢治とすれ違っていたかもしれないし、あるいは宮部博士と言葉を交わした賢治が、作品のモチーフとして博士を登場させていたという楽しい可能性をもつい想像してしまう


また北海道帝国大学も訪れていて、当時大学の総長だった南鷹次郎は同郷の
花巻から修学旅行生が見学に来るということで、予定を変更して賢治たち一行を
歓待し、訓辞を述べたあと学生食堂で菓子と牛乳を饗した。
その牛乳は甘美にして新鮮で生徒たちは一人で1ℓも飲んだという。





参考資料
    「統制以前 札幌の種苗業者一覧」
             昭和56年種苗協会会合に於いての記録 
                      (サッポロノウエン様より提供)
    筑摩書房            新校本 宮沢賢治全集
    札幌市              札幌百年の人びと
    札幌市教育委員会編     明治の札幌
    宮部金吾博士記念出版刊行会  宮部金吾


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田上義也設計 『札幌円山郵便局』について

札幌第一農園』は1930年(昭和5年)円山に、田上義也設計で新築移転する
この年の6月、『札幌第一農園』の南隣に、田上義也設計の『札幌円山郵便局』が竣工された。

この隣り合った、2棟の建物は現存していない。



札幌第一農園』安部邸の建物を見ることは叶わなかったが、『札幌円山郵便局』の建物は
写真を御家族が保管されていて、拝見することができた。






                 田上義也設計 『札幌円山郵便局』 昭和5年6月16日開設   ─円山地区で最初の郵便局─
田上義也氏設計 札幌円山郵便局 田上義也氏設計 札幌円山郵便局 
完成時 屋根のパゴラ(パーゴラ)が印象的
入り口の上のガラスには明かりが灯るようになっている
雪が見えるので冬の頃、左側三角屋根の部分は郵便局長御家族の住居 
右端にポストが見える

─住宅部分の左隣りに札幌第一農園(安部邸)の建物があったはず…

写真提供 初代円山郵便局長藤森氏御家族様より




田上義也氏設計図 札幌円山郵便局   田上義也氏設計図 札幌円山郵便局
外観の設計図も拝見することができた。





 
 田上義也年譜より抜粋
       昭和5年(1930年)3月  安部信明邸 (札幌)設計
                   5月  「札幌第一農園」(札幌 安部信明邸に附設 )
                   6月  「円山郵便局」(札幌)設計 



 当時の郵便局は、局長宅を借り上げ貸料を支払うというシステムになっていたそうで、
 初代円山郵便局長の藤森氏個人が田上義也に設計を依頼したと思われる。

 藤森家は明治13年に長野県から入植し、代々円山地区の名士として知られ、郵便局(藤森邸)の土地は
 予め確保の上設計を依頼したと考えられるので、札幌第一農園(安部信明邸)の土地については
 もしかすると親しい間柄であった田上義也の紹介だったかもしれない、あるいは安部邸の建築を見て気に入り
 藤森氏が設計を依頼したとも考えらる。

 また、設計者が同じである二軒の建物は、時期からみて同時進行で建築されたのだろうか。

 当時札幌第一農園の前は市街電車が通っており、宅地としても人気があり爆発的に人口が増加していた時期で、
 店舗としては最高の場所であったろうと思う。

 円山の札幌第一農園(安部邸)の建物は、子供の頃後ろ隣に住んでいたという藤森家親族の方からのお話によると、
 出窓がありとてもモダンな造りであったそうだ。
 ただ、種苗店についての記憶が無いということで、高い理念を持ちながらも不況と戦争という時代の波に
 店を続けてゆくことを 断念せざるを得なかったのかもしれない。



 後に、安部邸には第一銀行支店長一家が移り住んだ。
                                   (初代円山郵便局長御家族様談)


                   

2012.4.9 
2012.4.9 札幌円山 

札幌市中央区南1条西24丁目(北西角) 手前のビルが『札幌第一農園』があった場所
右隣りのビルには『札幌円山郵便局』があった。



すっかり景色は変わっても田上義也設計の2棟の建物は、
今でも同じ場所で並んで名残を留めているようにも見える





昭和6年 円山住宅案内図 
大きな地図で見る 
昭和6年円山住宅案内図より 
役場の跡地に現在の『札幌円山郵便局』がある
現在の札幌市中央区南1条西24丁目 
札幌第一農園と『札幌円山郵便局』があった場所



参考資料 
       円山百年史編纂委員会  円山百年史
       井内佳津恵著        田上義也と札幌モダン
                        札幌円山郵便局

                    札幌フラワー様   


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