石 川 啄 木

挿 話

 札幌農園と石川啄木の下宿跡
 小奴(近江ジン)さんの晩年に寄せて


宮沢賢治が尊敬していた郷土の先輩、石川啄木。
札幌農園の変遷を辿っていく過程で、札幌で2週間程過ごした下宿が、
「札幌農園 店舗」 の隣りにあったことが分かった。


fieldの両親が、晩年の小奴(近江ジン)さんと親しくいていただいた時の
小さなエピソードなど…


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札幌農園と石川啄木の下宿跡




明治40(1907)年9月14日から2週間、石川啄木が札幌滞在の時に身を寄せた下宿、
田中サト宅 札幌区北七条西四丁目四番地

翌明治41(1908)年 田中宅は引っ越し、その後には隣に住んでいた壇上さん一家が移り住んだ。

壇上さんは明治40年当時、向かいの北7条西5丁目で郵便業務を行っていたが、
田中宅に移り住んで間もなく自宅 北七条西四丁目四番地に郵便局(北7条郵便局)を移動させた。


   この10年程後、宮沢賢治が昭和2年にメモに記していた『札幌農園』が
          壇上宅(北7条郵便局)の隣りに店を構える。


田中サト宅引っ越しの経緯については札幌市北区役所ホームページで紹介されている



   大正7年 札幌農園(現サッポロノウエン)の種苗カタログ『札幌農園報』より                


札幌農園カタログ 住所
札幌農園カタログ 住所

大正七年一月
  札幌区農科大学正門通り
            札幌農園

本園は札幌区北七条郵便局隣に位する

発行所 札幌区北七条西四丁目四番地 札幌農園



           大正11年『人名案内図』 で場所を確認


大正11年『人名案内図』
札幌市制記念 人名案内図 大正11年5月より
オレンジで囲んだ部分が北7条西4丁目4番地 田中宅の下宿があった一角



             北7条西4丁目4番地 上の地図拡大部分
西












大正11年『人名案内図』 拡大図
郵便局から一軒挟んで北隣りが 『札幌農園』

『札幌農園』大正7年のカタログには、北7条西4丁目4番
地 札幌区農科大学正門北7条郵便局隣に位置すると
記載されている。

大正7年から11年の間に店が北隣りに移ったのか、
同じ建物を藤田商店と共同店舗としたのか? 



  現在の下宿跡を訪れて

  
石川啄木が滞在した下宿跡は、『札幌クレストビル』に変わり
ビルの南側入り口に石川啄木の胸像と、説明板が置かれている


      2008年8月撮影
石川啄木下宿跡
石川啄木下宿跡
現在の北7条西4丁目4番地 茶色の建物が『札幌クレストビル』
石川啄木の胸像があるビル右端の入り口
啄木胸像横の解説文
石川啄木下宿跡の胸像
石川啄木胸像の横にある、解説部分
『札幌クレストビル』の石川啄木胸像


「石川啄木胸像」 横の説明文
  
 石川啄木の下宿跡


   詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、
  明治40年(1907年)9月14日のことである。
  札幌停車場に午後1時過ぎ到着した啄木は、
  詩友・向井夷希微(いきび)らに迎えられ、彼らの宿でもあった
  「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。
  ときに満21歳。ここはその下宿があった場所である。
   滞在2週間であわただしく札幌を去るが、勤め先の北門新報に
  「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり」 の印象記を残し、
  またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。




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小奴(近江ジン)さんの晩年に寄せて




fieldが釧路市に住んでいた頃、母が勤め先で小奴(近江ジン)さんと知り合い、
親しくさせていただいていたのは、昭和二十年代後半から十年ほどの間。

その頃病気がちだった小奴(近江ジン)さんは、娘の百合子(養女)さんと二人で静穏に暮らしていたようだ。

幼かったfieldは、「近江さんのおばあちゃん」と呼び、母について富士見町のお宅にも
お邪魔したこともあったかもしれないが、半世紀も前のことなので残念ながら記憶にない。


母が仕事帰りに、小奴(近江ジン)さんのお宅に寄った時などは、必ずちょっとしたお菓子等をお土産に
頂いてきたことは覚えている。
到来物の高級そうな菓子を紙に包んで持たせてくれたり、百合子さんに買いに行かせた
子供向けの菓子などの時もあった。


写真が趣味で読書好きでもあったfieldの父は、小奴(近江ジン)さんにお会いした時には啄木の話題を
もちだしていたりしたのだと思う。

ある日、米町公園にある啄木の歌碑の前で、お洒落をした小奴(近江ジン)さんに写真を撮らせて頂いたそうだ。

この頃、床に伏す日が多くなっていた小奴(近江ジン)さんは、秋晴れで体調も良く
久しぶりに啄木の歌碑に出かけたくなったのかもしれない。

雑誌や新聞社のカメラマンがよく撮影していたように。 知人である母へのサービスだったのだろうか。

正装をし、歌碑の前で撮影する啄木との想い出写真…
小奴(近江ジン)さんにとってこの歌碑は石川啄木その人であり、墓標でもあったのだろうか。


    しらしらと氷かがやき
    千鳥なく
    釧路の海の冬の月かな


小奴(近江ジン)さん
 小奴(近江じん)・百合子 昭和25年
昭和35年9月
知人岬高台(米町公園)に昭和9年12月建立された歌碑の前で、
父が撮影した1枚

小奴(近江ジン)さんは、近くの知人宅から掃除用具一式を借り、
『これをすると、心が安らぐから』 と話し
いつもの様に歌碑の清掃を行ってから、撮影に臨んだそうだ。

       昭和25年8月
近江じん・百合子
(写真の裏に名前と日付入り)

小奴(近江ジン)さんから
頂いた写真で栞のように
作られている
  
     
小奴(近江ジン)さんと娘さん「くしろ港祭り」の日に

昭和30年8月 fieldの自宅前で、父が撮影

    『くしろ港まつり』の日に、釧路市弥生町にあったfieldの家に遊びに来た時の記念写真

           『くしろ港まつり』は、昭和23年「釧路港開港50年港まつり」を第1回として開催され、
           娯楽が少なかった当時、市民誰もが最も楽しみにしていた夏のお祭り。 

    小奴(近江ジン)さんは右手に杖を、左手には風呂敷包みを持ち、
    いつも一緒に寄り添っていた娘の百合子さんと、夏祭りを楽しんでいる普段の笑顔。

右から 近江百合子さん、小奴(近江ジン)さん





fieldは昭和36年札幌に引っ越し、
小奴(近江ジン)さんと百合子さんは昭和37年11月富山へ移り住んだ。
その後、小奴(近江ジン)さんは昭和40年2月東京で74年の生涯を終えた。




今年(2012)は、石川啄木没後100年。
宮沢賢治に大きな影響を与えた石川啄木に敬意を表して
小さな小さな挿話を記してみた。


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